大判例

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東京高等裁判所 昭和37年(ツ)15号 判決 1962年12月22日

上告人 関正夫

被上告人 荻野直人

主文

原判決を破棄する。

本件を東京地方裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人は主文同旨の判決を求め、その理由として別紙上告理由書記載のとおり主張した。

上告理由第二点について、

原判決によれば、「甲第三号証(被上告人の作成名義にかかる上告人宛の「承諾書」と題する昭和二十八年十二月三十日附書面で、上告人の賃借家屋に同居中の訴外木村、大塚両名が転出した後も上告人が同居人を置くことを認める旨の記載のある私文書)は、その作成名義人である被上告人名下の印影が被上告人において自己の印章を押捺したものであることを被上告人が自認しているので、反証のない限り、真正に成立したものと推定さるべきである。」として、右推定に対する反証の有無について検討を加えたうえ、上告人主張のように、「被上告人が自らの押印のあることを認めていることによつて得らるべき甲第三号証の成立の真正についての推定に対しては、その成立の真正でないことを断定するに足りる程の積極的な反対事実を認め得る証拠はない。」としながら、「他面被上告人と上告人との間の家屋賃貸借を廻る原判示紛争の経過及び実情にかえりみるときは、特別の事情が存在しない限り、甲第三号証が被上告人の意思に基いて作成された真正の文書であるとは到底認めることができないところ、特別の事情を認定するに足りる証拠はないから、このような場合には、民事訴訟法第三二六条の規定による甲第三号証の真正に関する推定については、これを覆すに十分な反証が挙げられたものと解するのが相当である。」と認めているのである。

民事訴訟法第三二六条は、私文書の本人または代理人の署名または捺印の成立が真正であるときは、その私文書全部が真正に成立したものと推定した規定であるから、署名又は押印のある白紙を他人が濫用し、又は署名者、押印者から委託された事項以外の事項をそれに記入し文書として完成したものであるとか、当該文書の記載が後日改ざんされたものであるというようなことが証明がなされた場合等においてのみ、右法律上の推定が破られるのみで、特別の事情が認められない限り、作成者がその他の部分を作成したものであることを認められないというような事情があつても、それだけでは右法律上の推定を破ることができないものである。

本件においては、原判決は、上記判示のとおり、捺印の成立について争のない甲第三号証のその余の部分の成立について、積極的な反対事実を認めうる証拠はないと判示しているのであるから、民事訴訟法第三二六条の規定により右部分の成立を当然肯定すべきであるのに、原判決は、その後段において、本件では特別の事情を認定するに足りる証拠はないから、被上告人と上告人との間の本件家屋賃貸借をめぐる紛争の経過及び実情にかえりみるときは、甲第三号証が被上告人の意思に基いて作成された真正の文書であることは認めることができないとしている。これは民事訴訟法第三二六条の解釈、適用を誤つた違法があり、右誤りは本件においては主文に影響があること明かであるといわなければならない。

よつて、その余の上告理由について判断するまでもなく、本件上告は理由があるから、民事訴訟法第四〇七条第一項を適用して、原判決を破棄し、本件を原裁判所に差し戻すべきものと認めて、主文のとおり判決する。

(裁判官 村松俊夫 伊藤顕信 杉山孝)

別紙 上告理由書

第一点原判決には審理不尽および理由不備の違法がある。

被上告人は債務名義たる本件調停調書につき上告人がその調停条項第六項に違反し大塚栄治および木村祐治以外の相川某および大塚ウメを同居せしめたとして昭和三十一年五月九日執行文の付与を受けた(甲第一号証)が、上告人は請求原因として、転貸に対する被上告人の承諾があつたから右調停条項第六項は効力を失つたことのほかに、上告人において大塚栄治および木村祐治以外の者を同居させたことがないから前記執行文の付与は違法である旨を本件請求に関する異議の訴において併せ主張していることは、本件記録(特に訴状ならびに昭和三十四年六月八日原告申請に係る証拠申請書中原告本人関正夫尋問事項第三項および原告の昭和三十五年六月六日附証拠説明書中甲第二号証に関する説明)に徴して明らかである。

ところで相川某なる者が本件家屋に居住したことはない(原告関正夫の供述)。乙第三号証中に相川某男が居住している旨の記載があるけれどもこれは本件家屋ではたく向つて右側の一戸のうち二階六畳間のことであるしこの場所にも相川某なる者は居住したことがない。また同人を同居させたというのは昭和二十九年十月十九日頃すなわち執行文付与を受ける二年四ケ月前のことである。従つてその証明資料たる通告書(甲第一号証添付昭和二十九年十月十九日付内容証明郵便)のみによつては上告人が右執行文付与当時本件家屋を相川某に転貸したとの事実は証明できない。つぎに大塚ウメもまた本件家屋に同居したことがないことは甲第二号証(昭和二十八年六月十三日転入、同年七月七日転出となつている)および原告関正夫の供述により疑問の余地がない。

従つてもし右事実が肯認されるものとすれば前記債務名義に対する執行文の付与は違法であつて本件執行力ある正本にもとずく強制執行は許されないこととなる。然るに原審はこの点につき審理を尽さずかつ判断を示さなかつたのであるから原判決は審理不尽(民事訴訟法第一八二条)および理由不備(民事訴訟法第三九五条第一項第六号前段)の違法があるものとして破棄を免れないのである。

第二点原判決には判決に影響を及ぼすこと明なる法律の解釈、適用の誤りがある。

民事訴訟法第三二六条には「私文書ハ本人又ハ其ノ代理人ノ署名又ハ捺印アルトキハ之ヲ真正ナルモノト推定ス」と定められている。甲第三号証の印影は荻野直人本人の押印に係ることを同人が認めているので反証のない限り同条によつて真正に成立したものと推定されるのであるが、原判決は「甲第三号証の成立の真正についての推定に対しては、その成立の真正でないことを断定するに足りる程の積極的な反対事実を認め得る証拠はないけれども、他面、被控訴人と控訴人との間の家屋賃貸借を廻る紛争の経過及び実情にかえりみるときは、特別の事情が存在しない限り、甲第三号証が被控訴人の意思に基いて作成された真正な文書であるとは到底認めることができないところ、特別の事情を認定するに足りる証拠はない。このような場合においては、民事訴訟法第三二六条の規定による甲第三号証の真正に関する推定については、これを覆すに十分な反証が挙げられたものと解するのが相当である」となし、甲第三号証の成立の真正を否定した。「十分な反証」として原判決が挙示するところは(イ)被上告人と上告人との家屋賃貸借を廻る紛争の経過及び実情にかえりみるときは「特別の事情が存在しない限り」甲第三号証の成立の真正は否定せられること(ロ)右の特別の事情を認定するに足りる証拠がないこと、の二点である。

右のうち(イ)は、(ロ)の前提たる意義を有するのであるが、これを設定することによつて(ロ)の「特別の事情」の存在につき後述のとおり上告人に立証責任を負担させる結果を導くのでありかくて原判決は民事訴訟第三二六条を無意味にするものである。

また(イ)において「紛争の経過及び実情」は「特別の事情」を要求する前提たる意義を有するのであつてそれ自体は反証の内容とされていないしまたそれのみにては「十分な反証」たり得ない。かくて原判決のいわゆる「十分な反証」は(ロ)の「特別の事情」を認定するに足る証拠がないということが重要な内容となつている。ここにいう「特別な事情」とは[調停調書の条項中重大な条項である将来についての同居禁止に関する条項を控訴人のために著しく有利に変更する約定」に関する特別の事情である。すなわちそれは甲第三号証の記載内容に対する記載内容以外の外面的な事情の謂に外ならない。原判決はこのような特別の事情を認定するに足りる証拠がない、としてその結果の不利益を上告人に負担させている。ところが民事訴訟法第三二六条は上告人のために甲第三号証の成立の真正の立証をなしたと同様に取扱うのであつて、ただ被上告人において「十分な反証」を挙げた場合に限り上告人は改めて成立の真正を立証すべきであるとなすのである。本件において前記(イ)のみによつてはいまだ「十分な反証」が挙げられていないのであるから上告人は依然として民事訴訟法第三二六条の推定の利益を受けている。従つて被上告人は「特別の事情」の不存在を立証すべきでありこれによつてはじめて「十分な反証」が挙げられたこととなる(註)。

(註) 大審院昭和六年四月一七日判決、新民事訴訟法学説判例総覧下巻三一七二頁

「本人ノ捺印アル私文書ハ法律上真正ナルモノト推定セラルルモノナルヲ以テ其ノ真正ヲ争フモノニ於テ之ガ反証ヲアクヘキモノトス 原審ハ被告カ自己ノ捺印アル私文書ノ真正ヲ争ヒタルニ此争点ニ関シ他ニ何等ノ証拠調ヲ為サスシテ直ニ被告本人ノ訊問ヲ為シ単ニ其供述ノミニ依拠シテ右書証ノ成立ヲ否定シタルハ違法ナリ」

然るに原判決は「特別の事情」を認定するに足る証拠がないとなしその不利益を上告人に帰せしめている。これは「十分な反証」が挙げられていないのに拘らず民事訴訟法第三二六条による「推定」を否定するものであつて同条の法意を全く無意味にするものである。

原判決はこの点において民事訴訟法第三二六条の解釈・適用を誤つたものであるから破棄せられるべきである。

第三点原判決はその理由に齟齬がある。

原判決は、「特別な事情」の存否の検討において、甲第三号証成立の事情に関する上告人の主張(第七丁一行目より十三行目まで)を排斥する理由として「控訴人本人の右供述に云われているように、その際被控訴人の要請に応じてその賃借家屋に同居人を置くことを承諾して甲第三号証を作成したということが是認されるためには、既述の控訴人と被控訴人間の紛争関係及び甲第三号証の内容からみて、それ相当の首肯するに足りる理由があつて然るべきであるのに、前示控訴人の各供述においては、その点につきなんら納得のゆくような説明がなされていない」となす。この点を分析すれば、(イ)「少くとも昭和二五年以来今日まで一貫して被控訴人は控訴人をその居住する家屋から立退かせる意図を持ち、かつ両者の仲は悪かつた」という紛争関係および「調停調書の条項中重大な条項である将来についての同居禁止に関する条項を控訴人のために著しく有利に変更する約定」たる甲第三号証の内容からみて被上告人が甲第三号証を作成したということが是認されるためには「それ相当の理由」または「納得のゆくような説明」がなければならないこと(ロ)然るに上告人は右の「理由」または「説明」をなしていないこと、というのである。

ところで原判決がこゝで問題としているのは甲第三号証成立の真正の推定に対する反証の内容たる「特別な事情」の存否であつて「特別な事情」を要求する理由は「少くとも昭和二五年以来今日まで一貫して被控訴人は控訴人をその居住する家屋から立退かせる意図を持ち、かつ両者の仲は悪かつた」という紛争の経過及び実情にもとずくものであり、また「特別な事情」とは甲第三号証の記載内容に対する記載内容以外の外面的な事であることは前記(第二点)のとおりである。すなわち原判決は「特別な事情」を要求した理由と同一の理由によつて甲第三号証成立の事情に関する上告人の主張を排斥するのであつて右理由を根拠とする限り原判決のいう「特別な事情」は絶対に存在しないこととなる。従つて原判決は結果において特別な事情の不存在を要求していないこととなるのであるがこの点において原判決の理由に齟齬があるというべきである。

つぎに(ロ)の点について云えば甲第三号証成立の事情に関する上告人の供述(第七丁一行目から十三行目まで)以外にいかなる「首肯するに足りる理由」または「納得のゆくような説明」があるであろうか。原判決は不能を強いるものでない限り右の「理由」または「説明」を要求していないとせざるを得ない。この点において原判決は重大な誤りに陥つている。

よつて原判決は民事訴訟法第三九五条第一項第六号後段によりこれを破棄すべきものと信ずる。

第四点原判決には経験法則に違反した違法がある。

原判決は「少くとも昭和二五年以来今日まで一貫して被控訴人は控訴人をその居住する家屋から立退かせる意図をもちかつ両者の仲は悪かつた」と認定し、その根拠として「控訴人と被控訴人は昭和二四年以来争いを続け、昭和二五年には被控訴人から控訴人に家屋明渡の請求があり、更に被控訴人が控訴人居住の家屋を破壊する等の事件により両者の仲はこじれきつて調停になり、昭和二八年三月二日に調停が成立し、控訴人が被控訴人方に家賃を持参するようになつたが……、その後も……控訴人が期日に遅れた昭和二九年八月分賃料と、同年九月分賃料を提供したところ被控訴人は種々の口実をかまえて受領せず、昭和二九年一〇月一二日に、控訴人が右八月分及び九月分の家賃を支払わないと称して本件調停調書に執行文の付与を受け強制執行をしようとしたが、被控訴人から執行文付与に対する異議の訴を起こされて敗訴したのであり、又、被控訴人が控訴人の無断転貸を理由に昭和三一年五月九日、本件調停調書に再び執行文の付与を受けた」という事実を挙示する。

上告人と被上告人との間に昭和二十四年に争いが発生しこの争いにつき昭和二十八年三月二日に調停が成立したことおよび昭和二十九年十月頃より両者間に争いが再燃したことは説示のとおりである。原審はこの事実を基礎として昭和二十五年以来今日まで一貫して被上告人は上告人を本件家屋から立退かせる意図を持ちかつ両者の仲は悪かつたと認定した。

しかしながら昭和二十四年に始まつた争いは同二十八年三月二日の調停成立によつて解消した。しかも右調停成立後昭和二十九年十月争いが再燃するまでに約一年七月の歳月を経ている。従つて反対に認定すべき証拠のない本件において上告人と被上告人との間の争いは昭和二十四年に始まり同二十八年三月二日解消した争いと昭和二十九年十月に始まつた争いの二つが存在するとみるべきである。

しかして、甲第三号証作成の日たる昭和二十八年十二月三十日を含む、右二つの争いの中間の時期(昭和二十八年三月より同二十九年九月までの間)において被上告人が上告人を立退かせる意図を有せずかつ両者の仲が円滑であつたことは以下の事実に照して明らかである。

(1)  被上告人は昭和二十四年に本件家屋の所有者となつて以来家賃の受領を拒絶し続けてきた-昭和二十五年十二月三十日目黒警察署における示談成立直後も受領を拒絶した-のに昭和二十八年三月二日の調停成立後はこれを受領するようになつたこと(甲第一号証の調停条項第二、第三項・同第九号証・同第十号証)ならびに右調停条項(甲第一号証)第六項に「但しその余の者を同居させるときは申立人の承認を得なければならない」とあつて大塚栄治および木村祐治以外の者の同居に肯定的であることおよび昭和二十四年に発生した紛争は被上告人が不当にも上告人を本件家屋から立退かせる意図を有したことが根本の原因であり他方上告人としては本件家屋を将来に向つて継続使用することに相当強固な意思を抱き怠慢、過失その他の行為によつて被上告人に乗ぜられることのないように極力警戒していた(甲第七号証第四丁二十四行目より第五丁三行目まで)のであるがそれにも拘らず被上告人が調停成立に踏みきつたこと等の事実は被上告人が前記立退意図を完全に放棄したことを立証する。

(2)  被上告人が昭和二十八年七月、十月、同二十九年二月の各月分の家賃を期限に遅れて持参したのに上告人において何ら異議を述べなかつたこと(甲第九号証)、被上告人が昭和二十八年十二月三十日上告人を自宅の座敷に上げて世間話や雑談をしていること(被告荻野直人の第一回尋問の際の供述・原告関正夫の供述)、上告人が被上告人方に子供が生まれた時に祝物を届けたことがあること(第一審における証人森下シゲ子の供述)等の事実より判断して両者の仲は悪かつたのではなく却つて円滑であつたと考えられる。

(3)  なお甲第七号証判決正本中に「被控訴人は本件家屋の所有者となつて以来一貫して被控訴人(「控訴人」の誤植)を立退かせる意図を有していた」とあり(第四丁十六、十七行目)、前記原審判示と類似の表現をなしているがこゝにいう「所有者となつて以来一貫して」とは調停が成立した昭和二十八年三月二日まで一貫して立退かせる意図を有していたという趣旨であることは右認定の根拠として「……昭和二十七年十二月二日には賃料不払を理由として条件附賃貸借契約解除の通告を発し翌年に至つて控訴人を相手方として家屋明渡調停を申し立てた事実」を挙げていることにより明らかである。従つて右判決は調停成立後も被上告人が一貫して立退かせる意図を有していたとは認定していない。

さて民法第一八六条第二項は「前後両時ニ於テ占有ヲ為シタル証拠アルトキハ占有ハ其間継続シタルモノト推定ス」と規定する。原判決はこれと同趣旨の経験法則を礎定し前後両時において被上告人が上告人を本件家屋から立退かせる意図を持ちかつ両者の仲が悪かつたのであるからその中間の時期においても被上告人は同様の意図をもちかつ両者の仲が悪かつたと推定した。

しかしながら右のような経験法則の礎定自体が誤りである。占有については前後両時に占有をなした証拠があるときはその間現状は変更なく継続して来た状態であると推定するのが占有制度の本旨に適合するのであるが紛争のような転変極まりない事象および人の意図・心理につき同様の推定をなしえないことは我々の経験が教示するところである。

仮りに右のような経験法則が存在するとしても本件のように前後両時の紛争の中間に一年七月の歳月が流れかつその間両者の仲が円滑であつたことを推認させる証拠のある場合に右の経験法則を適用し得ないのである。

然るに原判決は右の経験法則にもとずき前記のような認定をなしたのであるから破棄せらるべきである。

第五点原判決には採証法則に違反した違法がある。

原判決は「控訴人が主張する甲第三号証の成立の事情」すなわち「昭和二八年一二月三〇日に、控訴人が被控訴人を同人宅に訪問して、歳暮品の鮭一尾を贈ると共に同月分の家賃を支払つた際、当時控訴人の賃借家屋に同居中で近く他に転居の予定になつていた大塚栄治及び木村祐治のあとへ別の同居人を置くことにつき被控訴人の承諾を求めたところ、被控訴人は快くこれに応じ、折柄被控訴人と一緒に飲酒していた来客が被控訴人の依頼に基いて、右承諾の趣旨を明らかにするための書面の文言を控訴人の口述するとおり筆記し、これに被控訴人がその場で押印したものが、被控訴人から控訴人に交付されたのであるが、そのときの書面が甲第三号証にあたる」という事実を否定したのであるがその理由として(イ)「被控訴人が控訴人の要請に応じてその賃借家屋に同居人を置くことを承諾して甲第三号証を作成したということが是認されるためには、既述の控訴人と被控訴人間の紛争関係及び甲第三号証の内容からみて、それ相当の首肯するに足りる理由があつて然るべきであるのに、……その点につきなんら納得のゆくような説明がなされていない」こと(ロ)昭和二十八年十二月三十日上告人が被上告人に同月分の賃料を支払つたときには中村芳夫と森下金作の妻シゲ子とが同行していたが同人等は一様に上告人の供述するような甲第三号証の成立の事情に関する事実はなかつたと述べていることという二つの理由を挙げている。

しかしながら(イ)の理由が根拠たりえないことは既に述べた(第三点)とおりである。そこで以下に(ロ)の点について検討する。

昭和二十八年十二月三十日頃中村芳夫は借家たる上告人の隣家に居住していなかつたこと(甲第十四号証、乙第一号証の第三項「目黒の兄の家へ遊びに行つた」という供述)、中村芳夫が自己の借家に対し「目黒の兄の家」へ「遊びに行く」という程度の気持しか持つていなかつたのに家賃支払いの目的でわざわざその居住する新宿区淀橋七二五番地から出向いて目黒区上目黒七丁目四七三番地の上告人および森下シゲ子と落ち合いその上で目黒区平町一一番地の被上告人方(上告人方から被上告人方まで電車徒歩を含めて約五十分を要する)に賃料を持参するということは一緒に行かざるを得ない事情が存在しないかぎり常識上考えられないことおよび中村芳夫は同行の点につき全くふれていないことなどの事情を合わせ考えると原審が採用した同行およびその際の情景に関する森下シゲ子(同人は昭和三十二年五月九日離婚し旧姓柴田シゲ子となつた-甲第十三号証)の証言ならびに被上告人本人の供述は写実性を有しないものである。さらに「従来家賃は皆が一緒に届けて居たのか又は別々に届けて居たのか」という問に始まる森下シゲ子の尋問はいずれも不完全あるいは完全選言問または認否問(決断問)であつて質問内容の暗示的用語法により最も誤謬の危険を含む質問であるとされている(司法研修所「供述心理」事実認定教材シリーズ第一号 特に五六一頁以下参照)。従つてこのような尋問ならびに供述は信憑力を有しないものである。昭和二十八年十二月三十日上告人は被上告人方へ同月分の家賃を持参し座敷に上つて雑談したことは前記(第四点(2) )のとおりである。本人尋問において上告人はその際被上告人より甲第三号証の「承認書」を書いてもらつたと述べその時の模様を詳細に供述している。この供述が信憑力を有するものであることは前記森下シゲ子の証言および被上告人本人の供述と対比することによつて自ら理解されるところである。然るに原判決が蔓然この供述を排斥したことは採証の法則を誤つたものである。

よつて原判決は破棄せられるべきものと信ずる。

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